サハリンに残る宝台ループ線の存在を知ったのは、確か90年代の雑誌「旅と鉄道」に掲載されていたツアー旅行の告知だったのではないかと思う。ループ橋のたもとに停車する蒸気機関車のスナップ写真が、子ども心にも強く印象に残っている。

それから月日は流れ、ウェブ上では日本語による宝台ループ線の訪問記が散見されるようになったが、それでも現在に至るまで情報量は圧倒的に少なく、実際に自分の目で歩いて確かめてみたいという思いを抱き続けていた。

2018年9月、私は事前にユジノサハリンスク在住のセリョージャにメールで、

「サハリン郊外で行きたい場所は色々あるけど、その中でひとつだけ選ぶとすれば、是非とも宝台ループ線に行ってみたい」

と伝えていた。

実際に行けるかどうか、彼からの明確な返事はサハリンに来るまではっきりしなかったのだが、到着翌日の夜になって、セリョージャがホルムスクの友人を連れてアパートを訪ねてきた。

コメディアンよろしく、随分と陽気かつ流暢な英語を喋るこの男性が案内してくれるのかなと思いきや、翌日から写真撮影の仕事で、サハリン北部のアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ行かなければならないとのこと。

という訳で、彼の友人という形で、同じくホルムスク在住のアンドレイをループ線の案内人として紹介してくれるという。わたしにとっては相手の顔の想像が全くつかない、初見の人との探索になるわけだ。ともあれ、これで段取りは整った。


ホルムスクへ

探索当日、私はユジノサハリンスクから、恐ろしいほどのスピードで飛ばすミニバス(時刻表の通りに走る路線バスではない)でホルムスクへ向かった。

(このミニバスの乗車記は、いずれ別の機会で詳しく紹介したい)

午前11時前、ホルムスクに到着。広場には露店が出て随分と賑やかだが、さて、私が一度も顔を合わせたことがないアンドレイはどこにいるのだろう。

「マウカへようこそ」(日本語)

と、目が合った青年が、私に声を掛けてきてくれた。

今回、この探索に案内してくれるのは、流暢な英語を話す10代後半の青年アンドレイ、迷彩服を着た彼の叔父、それに叔父の友人(かつては船乗りで、紋別や酒田、舞鶴などの港町に行ったことがあるという)の3人。偶然にしては出来過ぎなのではないかと思うが、面白いことに3人とも同じ名前である。


旧豊真線/宝台ループ線概略図


旧豊真線に沿って

叔父さんが運転するワゴン車(もちろん日本車)に乗り込み、午前11時頃にレーニン広場を出発。起伏の多い市街地を抜け、谷あいから山越えの踏み固められたダートを進んでいく。ここがループ線へとつながる唯一の道である。

中心街から5キロほど進んでいくと、貯水池を見渡す丘の上に出た。ここは日本統治時代に真岡の製紙会社「樺太工業」(1933年に王子製紙へ吸収合併)によって造成された手井貯水池で、現在はロシア語で「秘密の貯水池」を意味する「タイノエ・ヴォドフラニリシェ (Тайное Водохранилище)」と呼ばれている。夏になると、キャンパーや水辺で遊ぶ人たちで賑わうそうだ。

貯水池の岸辺に沿って敷かれている線路は、日本統治時代に豊原(現在のユジノサハリンスク)と真岡(現在のホルムスク)を結ぶ目的で、1928年に開通した豊真線を引き継いだもの。

春から秋にかけて、ホルムスクから朝夕2往復の近郊列車が、宝台ループの数キロ手前、77kmPK(ピケット)9駅まで細々と運行されている。

(※本文最下部の追記も参照のこと)

日本であれば、とっくの昔に廃止されていてもおかしくなさそうなローカル線だが、このような鉄路を季節運行をしてでも、余暇の足として残そうというあたりに、ロシア国鉄の粋な計らいを感じる。サハリンが財政的に豊かだということもあるが、それがこの鉄路をあえて残す理由ではどうもなさそうだ。

観光資源である魅力的なローカル線を、不採算を理由に廃止を推し進めようとする、日本のどこかの鉄道会社とは大きな違いである。

夕方に走る列車の姿を、どこかで見ることができれば幸運この上ないが、果たして…。

貯水池を過ぎると、ダート上に数ヶ所の渡渉(車で浅い川を渡る箇所)があり、谷あいに古めかしい木造のダーチャ(家庭菜園付きの簡素な別荘)がぼちぼちと現れ始める。ホルムスクの市街地から随分と奥まった場所だが、ここが開けているのは農耕に適した土地がごく限られているのと、周辺の小川から容易に水を得られるからであろう。

私たちは庭の草刈りをしている若い主人に一声かけて、彼のダーチャの前で車を止め、お茶を飲みながら探索の準備をする。

ダーチャが点在する集落から少し歩くと、ニコライチュクという名の駅に出た。豊真線時代は池ノ端駅と呼ばれていたところ。簡素なプラットフォームと屋根の付いたベンチがあり、その傍らに立つソ連時代のモニュメントには、いくつかの花束が手向けられている。

このあたり一帯は日ソ両軍の激戦地になった場所で、この界隈には当駅を含めてソ連兵にちなんだ地名が点在しているとのこと。駅にはループ線へと向かう、モスクワなどからやってきたというハイキングツアーの参加者が10人ほどいた。

さっそく、ニコライチュク駅から宝台ループ線へと続く線路を歩く(※日本と異なり、こちらのローカル線では往来する列車にさえ注意すれば、基本的に問題はない)。この線路がループ線へとつながる唯一の道だ。

10分ほど歩くと、早くも77kmPK(ピケット)9駅が見えてくる。

ロシア国鉄では起点からの距離をそのまま駅名にしているところが非常に多いが、この駅がどこから77キロの地点なのか不思議に思っていたら、ユジノサハリンスクからの廃線区間を挟んだ距離とのこと。鉄路は途絶えても、駅名はそのまま残ったわけだ。

ここがホルムスクからの列車の終着点で、駅といっても長方形のコンクリートパネルを線路脇に2枚敷いて、ベンチと駅名版、時刻表を配しただけの極めて簡素な乗降場である。

ここからホルムスクへ向かう列車は、午前9時05分発と午後5時18分の1日2本。朝の列車で来てループ線を探索し、夕方の列車で戻るには十分過ぎるほどの時間だ。ダーチャの集落はこのあたりが最奥部で、これより先に人家はない。

線路は簡素な車止めの先にも穏やかな谷あいに沿って続き、枕木に歩調を合わせながら歩みを進める。

現在、77kmPK9駅より先に列車は走っていないようだが、線路の状態は現役線さながらに良く、多少の補修ですぐにでも復活できそうだ。ループ線の手前まで線路を撤去しないのも、おそらくは将来、観光客を呼び込むさいに活用できるよう考えているのだろう。

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