宝台ループ線第一橋梁

77kmPK9駅から3キロほど進んでいくと、谷あいの奥まった先にトンネルの覆道(ソ連時代の建設年を示す1957の文字が覆道上部に掲げられており、日本統治時代本来のトンネル入口は橋の奥に位置する)と大きなトラス橋が見えてきた。

今まで写真でしか見たことがなかったループ橋が今、目の前に圧倒的な存在感を持って頭上近くを跨いでいる。日本統治時代には、現在のトンネル覆道の入口左手に保線用と思われる詰所が建っていたらしい。

現地のガイドブックによれば、この橋梁は日本統治時代の1928年に完成。高さは41メートル、長さは125メートルあり、1945年に日ソ両軍の激戦地となったことから、いつしか「チョールヌイ・モスト (Чертов Мост)」、ロシア語で「魔の橋」と呼ばれるようになったという。このような歴史的背景があるにも関わらず、橋が無傷なのは、その当時、この路線が軍事的にいかに重要であったかを物語っているといえよう。

日本統治時代の正式な橋梁名も存在するはずだが、現地ガイドブックやWikipediaなどに記載はなく、単に宝台ループ線橋梁(日本統治時代の写真絵はがきには「豊真線ループライン」と書かれている)として紹介されているくらいだ。

(ここで言う「第一橋梁」とは、本文において位置関係を分かりやすくするための仮称です。日本統治時代の正式な橋梁名をご存知の方は、ご教授ください)

線路はループ橋の真下にあるトンネルの手前にある車止めで一旦途切れており、先ほど、ニコライチュクにいたツアー客は真っ暗闇のトンネルに入っていった。時計回りのループ線はここからふたつのトンネルを抜け、この橋上の右手に出るという構造だ。

ただし、このルートを選択すると、高さ40メートル以上ある橋の上を、枕木の隙間に注意しながら歩かなければならず、安全であるとは言い難い。

もう一方は、トンネル覆道手前の急斜面にある階段を登っていき、橋上の左手に出るシンプルなルートだ。

私はアンドレイたちにどちらのルートが安全か尋ね、階段を登っていくルートを選択することにした。まぁ、時間的にもその方が早い。

今にも踏み抜いてしまうのではないかと思うほど、ギシギシときしむ木の階段を登っていくと、線路が敷かれた橋台にたどり着いた。

眼下には谷あいを縫って緩やかにカーブを描く線路と、それに続くトンネルの覆道(スノーシェッド)が一望でき、橋上の反対側に空いたトンネルから再び線路が現れる、このループ線の構造が手に取るようにわかる。

橋台の傍らには、ソ連軍によって築かれた箱型のトーチカが今も残っている。この美しい絶景のループ線が、激戦地だったとは、にわかに信じがたい。そのような意味において、トーチカはここが確かに戦場であったことを伝える、数少ない歴史の生き証人である。


宝台ループ線第一橋梁、その先へ

宝台ループ線の探索はここで終わり…ではない。

実はこの先にもうひとつ「橋」があるのだ。

サハリンへ旅立つ前、インターネットで宝台ループ橋について書かれている日本語のウェブサイトをいくつか検索したのだが、ここ「魔の橋」まで行ったという人の記事やツイートは散見されたものの、その先の橋まで行った人の記事というものは、全くもって見当たらなかった。これは現在に至るまで変わらない。

これにはいくつかの理由が考えられるが、このループ線がどのような構造になっているのか、自然に還りつつある橋の先の線路跡がどうなっているのか、日本語の情報が極めて少なく、全体像がはっきり見えてこないことによるものと思われる。Wikipediaにある宝台ループ線の日本語による記述、および路線図に関しても、かなり曖昧な部分が多い。

かくいう私でさえ、昨晩にセリョージャから、

「第二の橋があるよ」

と、現地に来てから初めて知ったほどだ。

ウェブサイトの航空写真を見ても、このループ線は数多くのトンネルに挟まれていて写りが不明瞭な区間が多く、インターネット上だけの情報を頼りにして探索するのは到底推奨できない。

それに、ここから先は熊の生息域である。

橋の上では熊除けのために爆竹やホイッスルを鳴らしているグループがいたし、アーミーナイフを持っている若者も見かけた。セルゲイの叔父など、バチバチと青白い電流を流す道具(さすがにこれを日本で使う人は、まずいないだろう)を持参してきたほどだ。

このような事情もあり、第二の橋への散策は現地の地勢に精通した友人に頼むか、先述したような探索ツアーに参加するのがベストであろう。単独行など無論、絶対に避けるべきである(そのような人は一度も見かけなかった)。

「魔の橋」から先の区間は、トンネルの損壊などで1994年に廃止され、今も残る線路の道床からは木々や雑草が伸び放題の状態になっている。

いつ、どこから野生動物が出ても不思議ではない雰囲気の踏み分け道を、二本のレールを頼りに歩いていくと、沢水が流れる山の斜面にトンネルの入口が見えた。

このような場所にもソ連軍によって築かれたであろう箱型のトーチカがあり、小さな銃口が空いている。橋だけでなく、トンネルにも守りを固めていたようだ。

ひんやりとした空気が流れる楕円形のトンネルの中は少しずつカーブしており、中央部では光が全く届かないので、手持ちの懐中電灯を点ける。均等間隔に保守作業員用の待避場が壁面にあり、ソ連製の朽ちた通信機が付随している。

10分ほど真っ暗闇の中を歩くと、再び外の光が見えてきた。出口部分は支柱が立ち並ぶ正方形の覆道になっており、その傍らには通信機器室のような建物が残存している。

>> 次のページへ (パート3)