美育センター

レーニン広場とアムール川に挟まれた美育センター(Центр эстетического воспитания им. В. В. Белоглазова)は郷土博物館から徒歩数分。イルクーツク出身の商人によって1879年に設立された商館で、ウィーン出身の建築家が設計を手掛け、屋根の彫刻は大半がイタリアから持ち込まれたという。ドレスや宝石、香水、ワインなどの製造・販売事業を幅広く手がけ、帝政ロシア時代は極東随一の高級商館と称された。美しいクリーム基調の建物はヨーロッパの影響を強く受けている。

ジーマは屋根の角に立つ彫刻のひとつを指差して、

「宣誓書の下に穴が空いているのが見えるかい?」

と尋ねる。確かに小さな穴が空いているのが見える。彼曰く、旧日本軍がブラゴヴェシチェンスクに進出してきた際、将校の誰かが試し撃ちと称して空いたのがこの穴だという。

美育センターレセプションのパネル展示より

この建物はソ連成立後の1932年に青少年の課外活動施設「ピオネール宮殿」となり、現在に至るまで演劇やバレエ、ダンス、芸術、音楽をはじめとしたブラゴヴェシチェンスクの文化活動拠点となっている。

(活動主体は青少年のアンサンブルグループ「ロヴェンスキー」www.rovesniki-amur.ru)

ジーマはここの卒業生らしく、勝利広場の角に面した銅像を指差して、

「彼は私の先生だったんだ」

と言う。銅像のモチーフとなっているのは、1967年から1994年まで美育センターの芸術監督を務めたというベログラゾフ(Белоглазов)。なるほど…。

「さぁ、中を見ていこう」

(えっ?入れるの?) ※基本的に関係者限定

受付事務係のバーブシカ(お祖母さん)は彼と旧知の仲らしく、ハグを交わした後、

「どうぞ色々見ていって」

と言う。さすがはジーマ。人脈が広い。

商館の面影を残す階段を上がっていくと、どこからかピアノの音色が聞こえてくる。

2階の部屋の扉を開けると、ちょうど女の子たちがバレエのレッスンを受けている最中だった。この空間と雰囲気、以前にテレビで見たシベリアのバレエ学校の映像と完全にオーバーラップする。自己紹介はそこそこに、先生の指導のもと、ピアノの音色に合わせて私たちに基本動作の練習風景を見せてくれるという。

この街でもっとも印象に残る、ドラマのワンシーンを見ているかのようなひと時であった。

こちらはアンサンブルグループ「ロヴェンスキー」と芸術監督ベログラゾフの資料室。物置まで見せてくれた。

1階のホールではちょうど里親と卒業生の表彰式が行われている最中であった。右手に写っている照明・音響効果の担当者もジーマの友人である。


凱旋門と勝利広場

美育センターから歩いてすぐ、アムール川河畔の勝利広場に面するアーチ状の凱旋門(Триумфальная арка)はブラゴヴェシチェンスクを代表するランドマーク。地元の土産物でも凱旋門を描いたものをよく見かける。この門は地元住民の寄付によって1891年に完成したが、ソ連時代の1936年に破壊され、それから約70年後の2005年に完成当時の資料を用いて同じ場所に復元された。現在は観光客にもっとも人気のある撮影スポットのひとつである。

凱旋門が立つ勝利広場の界隈は帝政ロシア時代の19世期末から20世紀初頭にかけて、ブラゴヴェシチェンスクにおける貿易の中心地であった。

凱旋門の横には擬似ゴシック様式の地質学・自然管理研究所(Институт геологии и природопользования ДВО РАН)がある。1858年に「モーリタニア」という商館として建てられ、1890年にはロシアの文豪アントン・チェーホフがサハリンへの旅の途中で立ち寄ったという。

勝利広場の入口に建つレンガ造りの電気設備工場は現役だ。この界隈には1900年前後に完成した技師ゴシック様式の建物が数多く集まっており、帝政ロシア時代の賑わいを今に伝えている。


砲兵中隊第108号

プロムナードに立つ灯台(航行の目印というよりも、露中国境の監視所としての役割が大きい)の近くまで歩いていくと、その傍らに古い要塞のような建物が目に留まった。

その名はアーティラリスキー・ポールカポニエール(Артиллерийский полукапонир: Artillery Semi-Caponier)。

当時、ソ連と満洲国の国境地帯だったアムール川流域を警護する要塞の一部として1940年に建てられ、その後は長らく使われていなかったようだが、21世紀に入って本来の形に復元された。現在はブラゴヴェシチェンスク地域要塞博物館の一部として、不定期ながら一般に公開されているという。

この日はたまたま敷地内に迷彩服を着た教官のような若い男性が何人かおり、ジーマが彼らに見学できるか尋ねてみると、OKとのこと。ここでは若い教官が英語を交えて案内してくれることになった。

門をくぐるなり、右手に見えたのがこの壁画。

言うまでもなく、満洲国への進撃を題材にしており、左手にはアムール川と装甲艦、右手には日章旗を掲げた要塞や戦車を破壊する様子が描かれている。

まずは半地下型になったコンクリート造りの要塞を案内してもらうことに。湿気の多い建物の中は階段の下でいくつもの小さな地下室に分かれており、背丈ほどしかない細い通路によってそれぞれ結ばれている。

こちらは2箇所公開されている半地下砲台のひとつ。潜望鏡を覗いてみると、黒河の街並みがよく見える。椅子のそばにはマンホールの蓋のような穴が空いており、普段は閉じてあるが、当時はいざというときの脱出口として機能していたようである。

弾薬庫にはソ連の指導者レーニンとスターリンの肖像画が。国の指導者の肖像画を役所などに掲げる伝統は、この頃から現代に至るまでさほど変わっていない。

これは再現したものであろうが、室内の空気は酸素ボンベによって供給されていたようだ。

薪をくべて火を焚く台所やトイレなどは当時のまま残されており、ここで一通りの生活ができるようになっている。

地上に戻り、最近リニューアルしたという小さな資料展示室へ。

主に展示されているのは満洲国に駐屯していた関東軍(旧日本陸軍の総軍)の武器や弾薬、スコップ、水筒などである。旧式の銃のひとつは手に取ることができ、実際に構えてみると、過去の重々しい歴史まで伝わってくるかのようだ。

来館者の記帳を見ると、2016年にこの場所を訪れた日本人の名前があった(教官がわざわざそのページを探し出してくれた)。ブラジルから訪れた旅行者の名前もあり(ロシアとブラジルの間にはビザの相互免除協定があるので、ロシアを訪れるブラジル人は少なくない)、ノーマルな旅行では飽き足らない人々は世界中どこにでもいるようである。

見学を終えて資料館を出ると、前庭には軍の制服に身を包んだ小・中学生くらいの男女と若い教官がたくさん集まっており、すかさず教官の責任者らしき、迷彩服を着た壮年の男性から満面の笑みで握手を求められた。

軍事教育活動の一環であろうか。若い教官たちは武器の組み立て作業を行なっているところで、その様子を見つめる子どもたちは皆、片手に小銃を携えている。

ジーマ曰く、ブラゴヴェシチェンスクは国境に位置していることから、軍関連の基地や教育機関、それに関連商品を販売する小売店が多く、日本を含むミリタリーグッズを取り扱うバイヤーの間では割とよく知られている街らしい。こんな話をした後にしては偶然すぎるが、私自身、翌日に空港でバイヤーらしき日本人とロシア人のグループを見かけたほどだ。

>> 次のページへ (パート4)